1962年は、共産主義ポーランドが構築していた“英雄の時代”が終わりを迎えた時代でした。共産主義思想が色あせ、時代の空気に変化がみられ、ポーランドが東欧諸国のなかで最も自由な雰囲気に包まれていた頃だったのです。

私の母はカトリック教徒でバレリーナ、父はユダヤ教の信者で医師でした。父は自分がユダヤ教の信者であることを人に一切話さず、彼の家系には謎めいたところがありました。ある日、私は父方の祖母がアウシュヴィッツで死んだことを知り、それ以来カトリックである事、キリスト教徒である事の意味について深く考えるようになったのです。

私はチャック・コリアやキース・ジャレットに影響を受け、一時期ジャズ・ピアニストとして活動していました。映画の中でジョン・コルトレーンのバラード“ネイマ”を引用しましたが、あの曲はイーダとヴァンダ2人の女性に比類のない好機を開き、重要な結果に至るような効果をもたらせたのです。またポーランドではあの時代モダン・ジャズの流行があり、クシシュトフ・コメダ(ロマン・ポランスキー監督作品「水の中のナイフ」の音楽を担当)が活躍していました。

ポーランドの一部の人々は、私の作品が明確にホロコーストを扱っていないと反発しました。復讐心や罪悪感に関する内容ではなかったからです。私は2人の女性の旅路を描き、劇的な最後が彼女たちを待ち受けている作品を作ったのです。1962年のポーランドでは生きていくのに数々の困難があったはずです。世界全体を見回しても生きるのが難しかった時代を描くにあたって、散文的にせず詩的理念を持ち観客の共感を得ようと考えたのです。

欧米で作品が支持されて驚きでした。ポーランド映画というものが、世界でどう思われているのかずっと懸念していました。いざとなったら“切腹”をする覚悟で製作していたのです。

INDIE WIRE  2014年5月1日 掲載の記事を一部引用させていただきました。

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