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映画は夢か?現実か? ファスビンダーが死んでも、いまだ彼の描いた世界が現実なのに…その揺るぎない事実をこの映画が証明した! 映画は時限爆弾だ!全部吹っ飛ばせ!
パッとしない何気ない日常。
こんなはずじゃなかったという底知れぬ劣等感。そこに差した魔。
交錯する人々の"弱さ"が生む負の渦巻き。
その真ん中で狂ってゆく渦の目をドキドキしながら呆然と観ることしかできなかった。
「日本映画なんてつまらない」——。
この、何年かに一本の大傑作を観た後でも、使い古された嘆きを繰り返せるだろうか。
登場人物は全員罪人で、何ひとつ問題は解決しないまま、ありていな幸せさえ手に入らず、主人公はありえたかもしれない自分を外側から見つめるだけ。
あらゆる予定調和を逸脱し、ありがちな「文芸映画」の枠を大きく超える。
生まれたての名作を観終わった後、あなたは別の人間になっているだろう。何ひとつ変わらないまま。
「夜」とは、先行するショット内に後続するショットを発生させる原因が一切含まれていないことを意味する。
夜は、しかし、その背後から迫る「昼」の脅威につねに曝されている。昼を振り切り、夜を継続せよ。登場人物たちが夜を走ることで、夜が走る。
そして、我らが李徴、足立智充に震撼せよ。
ドストエフスキーの至言「囚人を逃亡させない最良の方法は、監獄に入っていると気づかせないことだ」がついに映画化された。
快挙であり暴挙であるこの映画は、今見られなければならない。
「日常を続けましょう」は看守の声だと、気づく時が来たのである。
好きな形容詞に"薄ら甘い"がある。素朴な菓子に感じる単純かつ繊細な優しい甘さに出会った時に進んで使っている。
この映画は、優柔不断な薄ら甘優しさをもった主人公の日常が、薄い言葉の解釈とステレオタイプな偏見に埋もれ、心の声さえも伝えられず、聞こえることもなく、自己意志なく変化させられている経過を見せつける。意識されぬ暴力を描いた恐ろしい作品です。
信じられない。
こんなに色々起きるのに、誰も成長しないなんて。
正気と狂気の境界線を踏み荒らしながら縦横無尽に突っ走り、観る側をパニックに陥らせておいて、実際には一ミリも前に進んでいないなんて。
それなのに、観終えたあと、これは自分の中にもある混沌だと認めざるを得ないなんて。
車、郊外、工場、隠蔽、裏切り、信義、反社、カルト。
映画を映画らしく駆動させる要素が、一見行き当たりばったりのようでいて、完璧に配置されている。
すべてが間違っていて、すべてが正しい。
皮膜のように薄っぺらくて空虚な日常。そんな軽すぎる世界に、ハンマーの一撃を喰らわせてやるのだ。粉々に砕け散った世界の向こう側から、途方もない暗黒がこちらを窺っているとも知らずに。そう、現実という名の暗黒が——。
町の底から響いてくるようなゴーッという低音。
それは分厚い雲の上を飛行機が通過する音か、国道を走るトラックの走行音か。もしくはどこか遠くの工場の音か、頭上にそびえる送電鉄塔から鳴っているのか。それとも吐き出し損ねた心の叫びか。
すっかりその存在に慣れてしまい、忘れかけていた郊外に鳴り響く様々な通奏低音が、スクリーンの向こうから爆音で再生される。
いつも癖で映画でも何でも先を読みながら観てしまうけど、全く読めないという喜び。
酒を飲みながら映画を観ることはほぼないのに、途中でどうしても飲みたくなって缶ビールを開けてしまった。
うちの実家が地方の零細鉄工場だったんで 「鉄くずあるある」 「社長はゴルフの打ちっぱなしへ消えがち」 「こういう人いるいる!」 「そしてある日、本当に消える」 などと笑えないけど笑いながら見ました。
素人が揉め事に反社つかうの、やめた方がいいらしいですよ。
公的な所に頼んだ方が結局は安く済むみたいです。
『サウダーヂ』(11)、『ケンとカズ』(16)の流れ(5年飛び)を汲む<リアルヤンキー物+桁外れなイマジネーション作>の異色作にして力作。
<ダークサイド・オヴ・ドライブ・マイ・カー>とも言うべき斬新さで、車は洗車を済ませ、罪と救済の断崖を、リアルと狂気の一線を、地続きに走ってゆく。
真っ赤な灰皿。箱のカタチの、足がついてる、缶でできたやつ。底に溜まった汚い汚い汚い水、粘る唾液が染み込んだ大量のタバコの吸い殻、そのエキスをじっくりと時間をかけて抽出した、もう、水って言っちゃいけない汁。
あの、臭い臭い臭い臭い臭い汁。黒い黒い黒い黒い黒〜い黒〜い汁って、一気飲みしたら死ぬらしいから、味を知りたければ代わりにこの映画を観るといい。
飲んだことがある事に気づくだけだとしても。
とある地方都市。職場も、家庭も、卑小な裏切りに満ちている。出口の見えない閉塞感が極まっていく時、痙攣的な疾走が始まる。しかし福音は不完全にしか訪れず、日常の不穏は形を変えて温存される。我々の生のように。
こうした描写の根本にあるものが気になり同監督の『教誨師』を観てみたら、登場人物たち(死刑囚)の生をどこかで負いながら今作品『夜を走る』が存在している気がしてグッと来た。
現実を不条理が侵食していく。
それは一人の映画作家が格闘し、認識するにいたった世の中のある断面なんだろう。
恐れを知らない、この野心的な映画は、観る人に激しい揺さぶりをかける。
ぶっ壊れているのは自分か、世界か?
佐向作品の登場人物たちは、曖昧で優柔不断で嘘つきでナンセンスで記憶力も欠如しているので、AかBかを選ぶことができない。彼らはしばしば法的にアウトだしコンプライアンス的にアウトだしポリティカリーにコレクトでもない。
だが、本当はありもしない二者択一をしばしば強制されているかのような気のする現代の我々の生活にとって、分かれ道のどちらかを選ぶことなくただそのどちら側にも同時にいるためだけに二人組を組む主人公たちの存在は、怖いくらいに笑えて、スカッとするのでモヤモヤさせられるのだ。
映画は夢か?現実か? ファスビンダーが死んでも、いまだ彼の描いた世界が現実なのに…その揺るぎない事実をこの映画が証明した! 映画は時限爆弾だ!全部吹っ飛ばせ!
パッとしない何気ない日常。
こんなはずじゃなかったという底知れぬ劣等感。そこに差した魔。
交錯する人々の"弱さ"が生む負の渦巻き。
その真ん中で狂ってゆく渦の目をドキドキしながら呆然と観ることしかできなかった。
「日本映画なんてつまらない」——。
この、何年かに一本の大傑作を観た後でも、使い古された嘆きを繰り返せるだろうか。
登場人物は全員罪人で、何ひとつ問題は解決しないまま、ありていな幸せさえ手に入らず、主人公はありえたかもしれない自分を外側から見つめるだけ。
あらゆる予定調和を逸脱し、ありがちな「文芸映画」の枠を大きく超える。
生まれたての名作を観終わった後、あなたは別の人間になっているだろう。何ひとつ変わらないまま。
「夜」とは、先行するショット内に後続するショットを発生させる原因が一切含まれていないことを意味する。
夜は、しかし、その背後から迫る「昼」の脅威につねに曝されている。昼を振り切り、夜を継続せよ。登場人物たちが夜を走ることで、夜が走る。
そして、我らが李徴、足立智充に震撼せよ。
ドストエフスキーの至言「囚人を逃亡させない最良の方法は、監獄に入っていると気づかせないことだ」がついに映画化された。
快挙であり暴挙であるこの映画は、今見られなければならない。
「日常を続けましょう」は看守の声だと、気づく時が来たのである。
好きな形容詞に"薄ら甘い"がある。素朴な菓子に感じる単純かつ繊細な優しい甘さに出会った時に進んで使っている。
この映画は、優柔不断な薄ら甘優しさをもった主人公の日常が、薄い言葉の解釈とステレオタイプな偏見に埋もれ、心の声さえも伝えられず、聞こえることもなく、自己意志なく変化させられている経過を見せつける。意識されぬ暴力を描いた恐ろしい作品です。
信じられない。
こんなに色々起きるのに、誰も成長しないなんて。
正気と狂気の境界線を踏み荒らしながら縦横無尽に突っ走り、観る側をパニックに陥らせておいて、実際には一ミリも前に進んでいないなんて。
それなのに、観終えたあと、これは自分の中にもある混沌だと認めざるを得ないなんて。
車、郊外、工場、隠蔽、裏切り、信義、反社、カルト。
映画を映画らしく駆動させる要素が、一見行き当たりばったりのようでいて、完璧に配置されている。
すべてが間違っていて、すべてが正しい。
皮膜のように薄っぺらくて空虚な日常。
そんな軽すぎる世界に、ハンマーの一撃を喰らわせてやるのだ。粉々に砕け散った世界の向こう側から、途方もない暗黒がこちらを窺っているとも知らずに。そう、現実という名の暗黒が——。
町の底から響いてくるようなゴーッという低音。
それは分厚い雲の上を飛行機が通過する音か、国道を走るトラックの走行音か。もしくはどこか遠くの工場の音か、頭上にそびえる送電鉄塔から鳴っているのか。それとも吐き出し損ねた心の叫びか。
すっかりその存在に慣れてしまい、忘れかけていた郊外に鳴り響く様々な通奏低音が、スクリーンの向こうから爆音で再生される。
いつも癖で映画でも何でも先を読みながら観てしまうけど、全く読めないという喜び。
酒を飲みながら映画を観ることはほぼないのに、途中でどうしても飲みたくなって缶ビールを開けてしまった。
うちの実家が地方の零細鉄工場だったんで
「鉄くずあるある」
「社長はゴルフの打ちっぱなしへ消えがち」
「こういう人いるいる!」
「そしてある日、本当に消える」
などと笑えないけど笑いながら見ました。
素人が揉め事に反社つかうの、やめた方がいいらしいですよ。
公的な所に頼んだ方が結局は安く済むみたいです。
『サウダーヂ』(11)、『ケンとカズ』(16)の流れ(5年飛び)を汲む<リアルヤンキー物+桁外れなイマジネーション作>の異色作にして力作。
<ダークサイド・オヴ・ドライブ・マイ・カー>とも言うべき斬新さで、車は洗車を済ませ、罪と救済の断崖を、リアルと狂気の一線を、地続きに走ってゆく。
真っ赤な灰皿。箱のカタチの、足がついてる、缶でできたやつ。底に溜まった汚い汚い汚い水、粘る唾液が染み込んだ大量のタバコの吸い殻、そのエキスをじっくりと時間をかけて抽出した、もう、水って言っちゃいけない汁。
あの、臭い臭い臭い臭い臭い汁。黒い黒い黒い黒い黒〜い黒〜い汁って、一気飲みしたら死ぬらしいから、味を知りたければ代わりにこの映画を観るといい。
飲んだことがある事に気づくだけだとしても。
とある地方都市。職場も、家庭も、卑小な裏切りに満ちている。出口の見えない閉塞感が極まっていく時、痙攣的な疾走が始まる。しかし福音は不完全にしか訪れず、日常の不穏は形を変えて温存される。我々の生のように。
こうした描写の根本にあるものが気になり同監督の『教誨師』を観てみたら、登場人物たち(死刑囚)の生をどこかで負いながら今作品『夜を走る』が存在している気がしてグッと来た。
現実を不条理が侵食していく。
それは一人の映画作家が格闘し、認識するにいたった世の中のある断面なんだろう。
恐れを知らない、この野心的な映画は、観る人に激しい揺さぶりをかける。
ぶっ壊れているのは自分か、世界か?
佐向作品の登場人物たちは、曖昧で優柔不断で嘘つきでナンセンスで記憶力も欠如しているので、AかBかを選ぶことができない。彼らはしばしば法的にアウトだしコンプライアンス的にアウトだしポリティカリーにコレクトでもない。
だが、本当はありもしない二者択一をしばしば強制されているかのような気のする現代の我々の生活にとって、分かれ道のどちらかを選ぶことなくただそのどちら側にも同時にいるためだけに二人組を組む主人公たちの存在は、怖いくらいに笑えて、スカッとするのでモヤモヤさせられるのだ。